北条 貞国(ほうじょう さだくに)は、鎌倉時代末期の北条氏の一門。桜田 貞国(さくらだ さだくに)とも呼ばれる。
生涯
弘安10年(1287年)の生まれとされる。これに基づけば、得宗家当主の北条貞時を烏帽子親として元服し、「貞」の偏諱を受けたものとみられる。その後の貞時・高時政権期の活動は不明である。
元弘3年/正慶2年(1333年)5月、新田義貞が挙兵すると、その討伐軍の総大将として長崎高重、長崎孫四郎左衛門、加治二郎左衛門らとともに討伐にあたったが、小手指原の戦い、久米川の戦い、分倍河原の戦いでそれぞれ激戦の末に敗れた。大将の北条泰家(高時の弟)らとともに敗走し、鎌倉へと戻った後、同月22日に北条高時ら一族らともに東勝寺で自害した(東勝寺合戦)。
しかし、以上の内容は『太平記』に見られるものであり、実際の史料ではそれより前の5月9日に、六波羅探題北方の北条仲時らと共に自害したとされる。いずれにせよ、幕府滅亡とともに亡くなったことは確かなようである。
得宗家と桜田流との関係系図
凡例:数字は得宗家代数、太字は執権経験者。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 峰岸純夫『新田義貞』吉川弘文館〈人物叢書〉、2005年5月10日。ISBN 4642052321。
外部リンク
- 桜田流北条氏




