トーマス・エドウィン・ミックス(Thomas Edwin Mix、1880年1月6日 - 1940年10月12日)は、アメリカ合衆国の映画俳優である。1909年から1935年にかけて、初期の西部劇映画の多くに出演した。生涯で291本の映画に出演し、9本のトーキーを除く全てがサイレント映画だった。ハリウッド初の西部劇スターであり、映画の初期に登場した「西部劇」というジャンルの定義を確立させた。
若年期
ミックスは1880年1月6日に、ペンシルベニア州ステートカレッジから北に約100キロメートルの所にあるミックスランで生まれた。出生時のミドルネームはヘジキア(Hezikiah)だった。父エドウィン・エリアス・ミックスは、裕福な材木商の家の馬小屋の管理人だった。ミックスは生地の近くのドゥボイズで育ち、父から馬の乗り方を教わり、馬への愛情を持つようになった。学校を卒業した後は地元の農場で働いていた。
米西戦争中の1898年4月、ミックスはアメリカ陸軍に入隊し、この際にミドルネームをエドウィンに改めた。エドウィンが所属した部隊はアメリカ国外に出ることはなかった。ミックスは1902年7月18日にグレース・I・アリン(Grace I. Allin)と結婚したが、結婚に伴う長期休暇の後、部隊に帰還しなかった。同年11月4日に無届離隊(AWOL)となったが、軍法会議にはかけられなかった。グレースとの結婚は1年後に破棄された。1905年にキティ・ジュエル・ペリンヌ(Kitty Jewel Perinne)と結婚したが、1年後に離婚した。1909年1月10日にノースダコタ州ミドーラでオリーヴ・ストークス(Olive Stokes)と結婚し、1912年7月13日に娘のルース・ミックス(Ruth Mix)が生まれた。
1905年、ミックスはセス・ブロック率いる50人の騎手の一員としてセオドア・ルーズベルトの2回目の大統領就任式のパレードに参加した。50人の大半は元第1合衆国義勇騎兵隊(ラフライダーズ)であり、ミックスはラフライダーではなかったが、後にハリウッドの宣伝担当者たちは、ミックスもラフライダーだったと喧伝した。
ミックスはオクラホマ州ガスリーに転居し、ここでバーテンダーなど様々な仕事をした。ミックスは、約4万ヘクタールというアメリカ最大級の牧場であるミラーブラザーズ第101牧場で働いた。この牧場でミックスは、ワイルド・ウエスト・ショーの巡回公演に参加していた。ミックスは乗馬技術や射撃技術に優れ、1909年と1910年の全米乗馬・ローピング大会で優勝した。
ミックスはフリーメイソンの会員だった。
映画界でのキャリア
1910年代
1910年、ワイルド・ウエスト・ショーを運営していたウィル・A・ディッキーは、セリグ・ポリスコープに資材や演者を提供する契約を結んだ。ディッキーはミラーブラザーズ第101牧場のショーを見たことがあり、ミックスに映画への出演を持ちかけた。ミックスはミズーリ州フレミントンで行われていたセリグ社の映画撮影にすぐに加わった。ミックスの映画初出演は1909年10月21日公開の短編映画"The Cowboy Millionaire"で、役名のない脇役での出演だった。1910年には、短編ドキュメンタリー映画"Ranch Life in the Great Southwest"に本人役で出演し、牛追いの技を披露した。セリグ社に所属する映画監督のオーティス・ターナーは、ミックスに映画俳優としての仕事を続けさせたいと考えたが、ミックス自身は俳優の仕事にはそれほど興味を示さず、ミラーブラザーズ第101牧場に一旦戻った。
1911年の春にセリグ社に戻ったものの、1912年初頭にセリグ社を退社し、カナダ・アルバータ州でロデオイベントのカルガリー・スタンピードを立ち上げた。その後、「バッファロー牧場ワイルド・ウェスト・ショー」としてカナダ各地を巡回した。その後、デューイーの夜間保安官を短期間務めた。
1913年1月、セリグ社からのオファーを受けて俳優に復帰し、俳優兼監督のウィリアム・ダンカンの作品に出演した。この間、ダンカンからの要請で、ミックスは一部の作品の脚本を書いた。1914年からは、セリグ社はミックスにリソースを与え、ミックスが脚本・監督・主演を務める映画の撮影を許可した。
1915年から、第一次世界大戦勃発によりアメリカ国外での映画の公開ができなくなったため、セリグ社は財政難となり、撮影スケジュールの短縮などのコスト削減を図り始めた。ミックスは別の映画会社との契約を模索し、1916年末にフォックス・フィルムと契約を結んだ。ミックスのセリグ社での最後の作品は1917年初頭に公開された。
セリグ社でミックスはヴィクトリア・フォードと何本かの映画で共演し、2人は恋に落ちた。ミックスは1917年にオリーヴと離婚し、1918年にヴィクトリアと結婚した。1922年2月にヴィクトリアとの間に娘のトマシーナ(トミー)・ミックス(Thomasina (Tommie) Mix)が生まれた。
1920年代
ミックスは1920年代に160本以上のカウボーイ映画を製作した。セリグ社での作品がドキュメンタリー指向だったのに対し、フォックス社に移ってからのこれらの作品はアクション指向の脚本だった。ヒーローと悪役が明確に定義され、格好の良いカウボーイが窮地を救うというのが定番だった。何百万人というアメリカの子供たちが、土曜日の午後にミックスの映画を見て育った。ミックスの愛馬である「ワンダーホース」トニーも有名になった。ミックスはスタントを自分で行い、たびたび怪我をした。
1913年、ミックスはアリゾナ州プレスコットの牧場を購入して「バー・サークルA牧場」と名付け、一家でそこに引っ越した。ミックスが出演する映画のいくつかは、ミックスの自宅で撮影された。ミックスは、プレスコットで開催される「世界最古のロデオ」と称されるプレスコット・フロンティア・デイズ・ロデオで成功を収めた。1920年代にはブルライディング・コンテストで優勝した。
フォックス社に移籍した当初の報酬は週350ドルだったが、移籍してからミックスの人気は急上昇し、最終的には週給17,000ドルまで上昇した。ゴシップ記者のルエラ・パーソンズは、ミックスは自宅の屋根に電飾で自身のイニシャルを描いていたと書いている。ミックスの演技は、自分で行うアクションスタント、乗馬、カウボーイの衣装、ショーマンシップをフルに使ったリアルなものだった。ミックスはロサンゼルスのエデンデールに約5ヘクタールの撮影セットを建設し、「ミックスヴィル」(Mixville)と名付けた。ミックスヴィルには、西部劇の撮影に必要な建物が一通り揃っており、「埃っぽい通りや手すり、酒場、牢屋、銀行、医院、測量士事務所、西部開拓時代初期の典型的な簡素な家を備えた、完全なフロンティアの街」と評された。敷地内には、石膏でできた模型の山に囲まれたインディアンの村のセットもあった。その他に、模擬の砂漠、大きな家畜小屋、室内の様子を撮影するための屋根のない家屋のセットもあった。
1927年までに、ミックスの映画を模倣した低予算の大量の映画が映画館市場に溢れかえるようになった。それに加えて、ミックスの報酬の高騰やフォックス社のトーキーへの傾倒から、フォックス社はミックスとの契約を更新しないことを決定した。フォックス社との契約が切れた後、ミックスはキース・アルビー・オルフィウム(KAO)社と契約してヴォードヴィルの公演ツアーに出た。
ミックスはフィルム・ブッキング・オフィシーズ・オブ・アメリカ(FBO)と契約するくらいならアルゼンチンへ行って映画を作るかサーカスに入ると言っていたものの、結局1928年にFBOと契約した。FBOでは6本のサイレント西部劇を製作した。FBOの移籍第1作が公開される頃には、FBOはKAOと合併してRKOとなっていた。ミックスのFBO/RKOでの出演作は、フォックスでの作品ほど注目されることはなかった。そのため、FBO/RKOでの6作目"The Dude Ranch"は製作途中で中止された。RKOのジョセフ・P・ケネディ(ジョン・F・ケネディの父)と報酬について折り合いがつかず、ミックスはRKOを退社した。ミックスはケネディのことを「ケチで守銭奴の畜生」(tight-assed, money-crazy son of a bitch)と呼んでいた。
ミックスは、ロサンゼルス在住でハリウッドの西部劇のセットを時々訪れていたワイアット・アープと親しくなった。1929年1月にアープが亡くなったときは喪主を務めた。新聞によれば、ミックスはアープの葬儀で涙を流していたという。
1930年代
RKO退社後は再びヴォードヴィルの公演ツアーに戻り、その後、セルズ・フロト・サーカスに週給2万ドル(2023年の物価換算で35万5千ドル)で2年間在籍した。その一方で、世界恐慌の期間に、自身とその妻の浪費癖により財産のほとんどが失われた。1931年にヴィクトリア・フォードと離婚し、1932年に5人目の妻となるメイベル・ハッベル・ウォード(Mabel Hubbell Ward)と結婚した。
1931年11月、ユニバーサル・ピクチャーズのカール・レムリから、トーキーの西部劇映画への出演要請を受け、ユニバーサルで9本のトーキーに出演した。しかし、1932年12月に撮影中に怪我をし、インフルエンザに罹患したことで、映画への出演に消極的になり、ユニバーサルとの契約を解除した。
ユニバーサルとの契約解除後は再びライブパフォーマンスに戻った。1934年、興行師のサム・B・ギルと組んでサーカス団「トム・ミックス・ワイルド・ウェスト・アンド・サム・ギル・サーカス」を起こし、翌1935年にギルが急死したため、ギルの持ち分を買い取ることにした。その資金を得るために、ミックスは映画プロデューサーのナット・レヴィーンが率いるマスコット・ピクチャーズと契約し、全15編の西部劇映画シリーズ"The Miracle Rider"に出演した。ミックスは、4週間の撮影で4万ドルの報酬を受け取った。屋外のアクションシーンの撮影は、主にロサンゼルス郊外のチャッツワースのアイバーソン・ムービー・ランチで行われた。ここにある巨大な砂岩のうちの一つは「トム・ミックス岩」と呼ばれている。この作品は興行的に大ヒットしたが、これがミックスの最後の映画出演となった。
1935年、テキサス州知事ジェームズ・V・オールレッドは、ミックスを名誉テキサス・レンジャーに任命した。
その後は娘のルースと共にサーカス団の出演と経営に専念した。1938年、ミックスはサーカスのプロモーションのためにヨーロッパに渡った。アメリカに残ったルースがサーカスの経営をしていたが、ミックスなしでは経営が成り立たず、ミックスは遺言によりルースを相続の対象から外した。
ミックスは映画俳優としての26年間のキャリアで600万ドル(2023年の物価換算で1億3300万ドル)以上を稼いだと言われている。
ラジオ
1933年、食品メーカーのラルストン・ピュリナ社は、ミックスの許可を得てその名を冠した西部劇ラジオドラマのシリーズ『トム・ミックス・ラルストン・ストレート・シューターズ』(Tom Mix Ralston Straight Shooters)を制作した。この番組は、第二次世界大戦中の1年間を除き、ミックスの死後の1950年代初頭まで継続して放送された人気シリーズとなった。ミックス自身は、撮影中の喉や鼻の負傷でラジオ向きの声ではなくなっていたことからこの番組には出演せず、代わりにラジオ俳優(アーテルス・ディクソン(1930年代初期)、ジャック・ホールデン(1937年以降)、ラッセル・トーセン(1940年代初期)、ジョー・"カーリー"・ブラッドリー(1944年以降))が主演し、その他ジョージ・ゴーベル、ハロルド・ピアリー、ウィラード・ウォーターマンらが脇役として出演した。
死去
1940年10月12日、アリゾナ州ツーソンのピマ郡保安官事務所を訪れた後、ミックスが運転する自動車がアリゾナ州フローレンスから南に18マイルの地点で横転し、ミックスは死亡した。60歳だった。葬儀は1940年10月16日にカリフォルニア州グレンデールのリトル・チャーチ・オブ・フラワーズで行われ、数千人が参列した。遺体はグレンデールのフォレスト・ローン・メモリアル・パークに埋葬された。ミックスが死亡した地点の近くのアリゾナ州道79号沿いに記念碑が設置された。
遺産
ロナルド・レーガンやジョン・ウェインがまだ若かった頃、ミックスは「カウボーイの帝王」として知られており、彼らが演じるカウボーイには、ミックスの影響が見られる。ウェインがハリウッドで映画俳優となったきっかけは、南カリフォルニア大学でフットボール選手だったウェインが怪我で選手生命を絶たれて大学を中退した後、ミックスがフォックス社の大道具係の仕事を世話したことだった。
ミックスは生涯に291本の作品に出演したが、2007年現在で、視聴可能な状態にあるものは約10%である。1937年フォックス保管庫火災により、フォックスで製作されたミックスの出演作品の大半が失われた。
映画産業への功績を称えて、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームのヴァイン・ストリート1708番地にミックスの星が設けられた。グローマンズ・チャイニーズ・シアターの前庭「フォーコート・オブ・ザ・スターズ」には、ミックスの手形・足形(カウボーイの靴の形)と愛馬トニーの蹄の形を刻んだセメントタイルが埋め込まれている。死後の1958年、オクラホマ州オクラホマシティの全米カウボーイ・ウェスタン遺産博物館は、ウェスタン・パフォーマーの殿堂へのミックスの殿堂入りを発表した。オクラホマ州デューイーにはトム・ミックス博物館がある。
漫画への出演
1940年代から1950年代にかけての西部劇漫画の全盛期には、ミックスを主人公とするものも多く描かれた。
ミックスが登場する初めての漫画は、デル・コミックスの『ザ・コミックス』第11号だった。
前述のラジオ番組のスポンサーだったラルストン社は、1940年から1942年にかけてトム・ミックスを主人公とする西部劇漫画の雑誌を計12号発行した。これらの雑誌は、ラルストン社のシリアル食品の箱に封入されたクーポン2枚をラルストン社に送ることで購入できた。
フォーセット・コミックスは1948年から1953年にかけて『トム・ミックス・ウェスタン』を61号発行した。
フィルモグラフィ
セリグ・ポリスコープ時代
特記のあるものを除き、全1巻の映画であり、大半はフィルムが喪失している。
フォックス・フィルム時代
FBO時代
ユニバーサル・ピクチャーズ時代
マスコット・ピクチャーズ時代
脚注
参考文献
- Basinger, Jeanine (1999). Silent Stars. Wesleyan University Press. ISBN 0-8195-6451-6. https://archive.org/details/silentstars00basi
- Birchard, Robert S. (1993). King Cowboy: Tom Mix and the Movies. Burbank: Riverwood Press. ISBN 1-880756-05-6
- Jensen, Richard D. (2005). The Amazing Tom Mix: The Most Famous Cowboy of the Movies. iUniverse. ISBN 978-0-595-35949-3
- Mix, Olive Stokes; Heath, Eric (1957). The Fabulous Tom Mix. New York: Prentice Hall. https://archive.org/details/fabuloustommix00oliv
- Ohmart, Ben (2002). It's That Time Again. Albany: BearManor Media. ISBN 0-9714570-2-6
外部リンク
- Tom Mix - IMDb(英語)
- トム・ミックス - TCM Movie Database(英語)
- B-Westerns
- Tom Mix photographs
- Iverson Movie Ranch
- Tom Mix - Find a Grave(英語)
- Raw Footage Tom Mix by Ken Murray in 1940 2 weeks before death in car - YouTube
- Tom Mix Museum




