山内 通義(やまのうち みちよし、1850年(嘉永2年12月)- 1912年(明治45年)5月21日)は、明治期の陸軍軍人。最終階級は陸軍工兵大佐。
経歴
山口県士族。陸軍少尉に任官の後、1872年7月(明治5年6月)、陸軍中尉に昇進。西南戦争に従軍し、1877年(明治10年)5月4日に陸軍少佐に昇進するとともに東京鎮台工兵第1大隊長に仰せ付けられる。1879年(明治12年)ごろ、高崎営所に在勤。以後、東京鎮台幕僚参謀、兼工兵局御用掛、名古屋鎮台参謀などを歴任し、1884年(明治17年)10月7日、陸軍教導団次長に就任し、同月25日、工兵中佐に昇進。1888年(明治21年)12月27日、陸軍工兵大佐に進み、翌日、陸地測量部長に就任。1889年(明治22年)6月3日、初代陸軍砲工学校長に転じた。1893年(明治26年)4月21日に休職し、1894年(明治27年)11月24日、留守第2師団参謀長として復帰した。1901年(明治34年)5月19日、予備役に編入され、1908年(明治41年)4月1日に退役した。
栄典
- 1874年(明治7年)3月10日 - 正七位
- 1884年(明治17年)11月14日 - 正六位
- 1885年(明治18年)11月19日 - 勲三等旭日中綬章
- 1888年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章
- 1891年(明治24年)7月6日 - 従五位
- 1901年(明治34年)7月10日 - 正五位
人物
- 書画、唐宋の詩歌を愛好していた。
- 東京市牛込区市谷田町2丁目24番地の家を所有していたが、「赤字になりかけたら、へんな見栄なんか棄てて、まず家蔵を売ってしまえ」と遺言していた。
親族
- 五男 山内義雄(フランス文学者)
脚注
参考文献
- 山内義雄『遠くにありて』〈講談社文芸文庫〉、講談社、1995年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 大植四郎編『明治過去帳』新訂初版、東京美術、1971年(原著私家版1935年)。



