理民府(りみんふ、英語: District Office,1907年9月 - 1982年10月1日)は、イギリスによって香港の新界に設置された地方行政機構。南京条約、北京条約によって割譲を受けた香港島・九龍の両地区とは異なり、新界地区は1898年に展拓香港界址専条により租借された土地であり、清朝の潜在的主権が保留されていた。またその接収時には現地住民の強い抵抗を受けたため(新界六日戦争)、新たな支配者であるイギリスは大清律例に代表される清朝の法慣習や、自律性の高い原居民の伝統と利益とに配慮しなければならなかった。そのため新界には香港島・九龍の「市区」とは異なる統治機構の設置が必要とされ、管轄区毎に行政・司法について広範な権限を有することになった。
九龍に隣接する地域の市街地化(新九龍)が進み、また戦後にはニュータウン開発が各地で進められていくと、香港政庁の新界に対する態度を反映して各理民府の管轄範囲や職権も大きく変化していく。最終的に1982年、政務総署(英語: City and New Territories Administration)を頂点として市区・新界の地方行政組織は政務処(英語: District Office)の名で統合され、両者の区分は消失した。
沿革
- 1899年4月16日:イギリスは新界を接収し、新界を八つの約に区分した。
- 1907年9月:新界理民府が成立。新界の業務を総覧する理民官の下に北約と南約の2つの管轄区を設置した。北約助理田土官は「北約助理理民官」と改称されたが、南約助理田土官の名称は維持された。北約理民府は大埔(沙田も含む)、上粉沙打(上水、粉嶺、沙頭角、打鼓嶺。北区の前身)、西貢、元朗、青山(屯門の前身)を、南約理民府では新九龍、荃湾(葵涌、青衣、馬湾を含む)、離島を管轄した。
- 1910年2月:南約助理田土官を「南約副理民官」に改称。ただしその権限・地位は理民官及び北約助理理民官と同等であった。
- 1920年:南約副理民官の正式名称が「南約理民官」となる。
- 1928年8月:南約・北約の両理民府が合併。
- 1930年7月:南約・北約の理民府が再び分立。
- 1945年9月13日:香港におけるイギリスの施政権が復活。戦後直後の軍政府は南約と北約の2つが別々に行政を管轄していた従来の慣行に代わり、南北の理民府を再び統合した。単一の新界理民府と理民官が置かれ、その下位に南約・北約それぞれの助理理民官が置かれた。
- 1947年7月:北約助理理民官が大埔・元朗の2つの理民官に分割。元朗理民府は元朗と青山、大埔理民府は大埔、沙田、上粉沙打、西貢を管轄した。西貢の中心市街である西貢墟は北約から南約へと移管された。
- 1948年12月15日:新界理民府は「新界民政署(英語: New Territories District Commission)」と改称されて全ての理民府を管理し、同時に3つの助理理民官は理民官へと昇格した。
- 1957年10月18日:南約理民府内に理民官を増設(ジェームズ・ヘイズ)。事務所は梅窩に置かれ、離島における南約理民府の事務を補助した。管轄範囲は長洲島、大澳、梅窩、坪洲、東涌、南丫島南段、南丫島北段、大嶼山。もう一人の理民官(ハル・ミラー)は荃湾、青衣、馬湾、坑口および西貢の南約管轄範囲を管理した。
- 1958年10月10日:荃湾のニュータウン開発にともない、南約理民府から荃湾理民府が分離し、荃湾、青衣、馬湾を管理した。南約理民府は西貢、坑口、大嶼山および一帯の離島を管轄。
- 1960年11月27日:南約理民府が解散され、西貢・離島の2つの理民府が成立。西貢理民府は西貢と坑口、離島理民府は大嶼山とその一帯の離島を管轄した。
- 1961年:理民府に設けられた裁判司法庭が廃止される。
- 1963年7月15日:白沙湾淡水化計画が放棄されたことにより、西貢・離島の両理民府が再度合併。南約理民府が復活する。
- 1969年11月1日:南約理民府の業務過多に対応するため、南約理民府が再び西貢理民府と離島理民府に分割される。
- 1974年4月1日:沙田理民府が大埔理民府から、青山理民府(後の屯門理民府)が元朗理民府から分離。
- 1974年11月:新界政務署(英語: New Territories Administration)が新界民政署に代わり、7つの理民府を管轄。
- 1979年10月1日:北区理民府が大埔理民府より分離、上水、粉嶺、沙頭角、打鼓嶺を管轄。
- 1981年4月1日:政庁は地方行政計画(英語: District Administration Scheme)を実施。新界各区に区議会を設置したが、理民府は運用が続けられた。
- 1982年10月1日:政務総署の下で新界の各理民府および香港島・九龍の民政処は統合され、各区には「民政事務処」が置かれた。新界理民府首長である「理民官」と港九民政処首長である「民政専員」は「政務専員」へと、副理民官と港九的民政主任は「政務主任」へと改称された。従来理民府の職掌であった新界の土地に関する事務は、新界各区の地政処へと移管された。
組織上の変遷
職責
理民府の主管は理民官であり、新界政務司(英語: Secretary for the New Territories。1948年から1974年までは新界民政署長District Commissioner, New Territories)に対して責任を負った。理民府の職責範囲は広範にわたり、新界地区の一般的な行政のほかにも、以下の業務を担当した:
- 土地登記と売買登記
- 土地収用の賠償
- 紛争の仲裁
- 少額訴訟の判決
- 土地問題の処理
- 顧問委員の任命
- 政庁に対し地域社会を代弁してその利益を要求
- 地域に対して政庁の政策プログラムを説明し、支持を要求
- 新界における様々な政府部門の仕事を調整
- 政治情報の収集
- 違法建築の管理
- 地域開発の奨励と援助(各種建設プロジェクトを含む)
- 教育の発展を援助
- 緊急事態にまつわる様々な救援活動の組織化
- 社会福祉問題の処理
- 駐香港英軍との連絡調整
このほか、第二次世界大戦前まで理民府には郵便局が付属しており、およそ新界における大小様々な事務の全てがその管轄内にあった。
庁舎
北約理民府の庁舎は1907年頃、大埔運頭角里に建てられた(旧北区理民府。現在はスカウト香港連盟新界東地域総部として使用されている)。南約理民府庁舎は新界地区になく、九龍・ガスコイン・ロードの九龍巡理府に設けられていた。1967年12月には巡理府が手狭になったため、新築された九龍政府合署17 - 19階へ移転した。
歴代の理民官(1948年以降)
南約理民官
荃湾理民官
西貢理民官
離島理民官
大埔理民官
沙田理民官
北區理民官
元朗理民官
屯門理民官
脚注




